人工知能、AIについて~人間が創造主になる日
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有史以来、人間はいろいろなものを発明してきた。
道具、土器、文字・・・
近現代には蒸気機関、原子力、インターネット
人類の発明には終わりがないだろう。
しかしながら終わりが万が一来るなら最後の発明は
「自ら発明することができる人工知能」
になるであろうと自分は思う。
目次
人工知能とは
人工知能は二つの意味を持っている。
「機械自体に人間の知能を持たせようとする立場」
「人間の知能をもって行うことを機械にさせようとする立場」
実際の研究では後者のものがほとんどのようだ。
オセロや将棋などのいわゆるコンピュータもAIにあたる。
人工知能の歴史
人工知能は17世紀はじめにルネ・デカルトが動物の体がただの複雑な機械であると提唱したところから始まっている。
その後1950年代にジョン・マッカーシーが「人工知能」という言葉を作り出した。
1960年代~1970年代の間にテッド・ショートリッフェが医学的診断と療法におけるルールベースシステムを構築し、知識表現と推論のパワーを示した。これが最初のエキスパートシステム、つまりは人間の専門家の意思決定能力をエミュレートしたものであると呼ばれることもある。
ロボット向けのAIとしてはMITのロドニー・ブルックスが提唱した包摂アーキテクチャという理論がある。これは従来の「われ思う、故に我あり」の知が先行する人工知能ではなく、体の神経ネットワークを用いて環境から学習するシステムを用いている。
また2045年には知識・知能の点で人間をのそれを越える技術的特異点が訪れるとするということを唱える学者もいるほどとなっている。
人工知能の研究
人工知能の研究はモジュールに分けて行われているようだ。
音声認識、画像認識、推論、学習、感覚の処理、言語処理、探索、プランニングetc・・・
それぞれが今の段階では人間のそれには及んでいないのが現状だ。
人工知能と哲学
強いAIそれはつまり人工知能が人間の意識に相当するものを持つという考え方である。それはたびたび哲学の世界を巻き込んでいる。
これはAIが意識を持てるとする派と意識を持ちえるはずがないとする派で大きく分かれている。
前者の多くが人工知能の長期目標として人工意識を挙げている。
しかしAIに人工意識が宿るとすれば哲学的に本来、肉体によって規定されるはずの意識が違うものに宿ってしまうことになる。
また、その肉体に宿っていない意識と我々、肉体に宿っている意識とはコミュニケーションが取れるのであろうかという問題も出てくる。
それを考えると現時点でコンピュータが意識を持っていても不思議ではないわけである。ただ、コミュニケーションが取れないだけなのだから。
個人的考察
近年、どんどん人工知能は進化している。
しかしながら現時点でそのモジュール一つ一つは人間には及ばない。
これが人間に非常に近くなったときどうなるであろうか。
自分はこのエントリー
で紹介したようにAIにも「不気味の谷」のようなものが出てくるのではないかと考えてしまう。
この項では「不気味の谷」について「動く死体」に対する自己防衛本能一つであると触れている。
この場合のAIはつまり「人間と同じ意識を持ちながら人間でないもの」に他ならないからだ。
目の前の機械が自我を持ち、意識を持ったらどうだろう、もし他のコンピュータと悪口を言っていたら?実は好かれていたら?
人間は同じ知能を持ち、なおかつ姿かたちの違うものに対し、どんな気持ちを抱くであろうか
これは「不気味の谷」とは違えども似ているものではないだろうか
あえて言うなら「無機物と有機物の壁」というべきか
最終的に人間と同じ自我をもったら友好的になる証拠はどこにもないのである。
技術的特異点を越えれば人工知能は自らの力で進化していくのだろう。
それは人間がある意味創造主になったことの証明になるのかもしれないが
果たして神の領域の先に何が待っているのかは知る由もないのである。
まとめ
個人的な考察ではネガティブな考察を行ったものの人工知能研究は明るいものであると思う。
なぜなら基本的には人類の暮らしをより良くする為の研究だからである。
願わくば悪い方向に進まず、便利になる方向に進んでほしいものである。